第10期修了式記念講演
中国黄土地帯での森林回復事業
認定NPO法人緑の地球ネットワーク 事務局長 高見邦雄
1.10年のうち9年は干ばつ
緑の地球ネットワークは1992年から中国山西省大同市の黄土高原の農村で緑化協力を継続しています。北京から西に300kmのところで、北京の水源であり、風砂の吹き出し口でもあります。そこの民謡にこう歌われています。「靠着山呀,没柴焼。十箇年頭,九年旱一年澇…」(山は近くにあるけれど、煮炊きにつかう柴はなし。十の年を重ねれば、九年は旱で一年は大水…)。それは21年間通いつづけた私の実感でもあります。(図-1)
山に木はありません。草もまばら。年間降水量は平均400㎜で、大阪の4分の1以下。問題が2つあります。1つは年ごとの変動が大きいことで、多い年は650mmほどですが、少ない年は200~250mmに落ち込む。干ばつの年は、蒔いた種ほども収穫できません。
もう1つは季節的な偏りで、雨は6月半ばからの3か月に集中します。そして作物や植物が芽生え育つ春に雨がなく、「春の雨は油より貴重」というくらいです。夏の雨はごく狭い範囲に短時間、集中的に降ることが多く、私も1時間70mmの雨を何度か体験したことがあります。まさにゲリラ豪雨。
図-1 大同は北京の水源。風砂の吹き出し口でもある。
植生の乏しい大地にこのような雨が降ると、表土が流されます。水もそこに留まりません。中国では「水土流失」と呼びますが、そのために土がやせ、作物や植物が育たなくなります。場所によっては岩盤がむき出しになっています。これが黄土高原における砂漠化です。皮肉なことに雨が砂漠化を加速するわけです。(写真-1)
写真-1 夏の雨がえぐった浸食谷。畑の表土も流される。
2.酒はうまいし、ねえちゃんはきれい
なぜそんなところに行ったのでしょう。場所を選んだのは私たちではありません。共産主義青年団中央の幹部で、「緑化にたいへん熱心です。美人の産地として歴史的に有名ですし、いい酒もあります」と紹介されました。その人はいま農業大臣です。
実際は天国ではありませんでした。自然条件も厳しいけど、それ以上に歴史問題が深刻だった。日本の占領中にこのあたりにきた男が、戦後に「大同では大同に処女なしと言われていた。それは日本軍の恥辱を意味する」と書いています。児玉誉志夫という右翼の頭目です。とても信じられませんけど、なにかあったのは事実でしょう。
木を植えて育てるのは、子供を育てるのといっしょだと、カウンターパートの武春珍所長(女性)はよく例えます。両親がいがみあっていて、子供がちゃんと育つわけがありません。初期の植樹は失敗つづきでした。
3.文明の前には森、後には砂漠
砂漠化には人の営為も深く関わっています。山西省の森林被覆率の推移について、このような推定があります。秦代50%、唐宋代40%、遼元代30%、清代10%未満、中華人民共和国成立時2.4%。長い歴史が森林を失わせたのです。
こういう光景があります。最初にこれをみたとき、農民の子の私は、「ああ、中国の農民も勤勉なんだな」と感心したものです。しかしこれは環境破壊と貧困の悪循環、そのシンボルなのです。いったんこの悪循環に陥ると、内部の人の努力では脱出できません。たとえばある人が貧困を脱けだそうと、飼っているヒツジをふやす。でも、それをみんながやったら、悪循環は深まるだけです。(写真-2)(図-2)
写真-2 耕して天に至る。どこまでもつづく段々畑
黄河文明は黄土高原文明なんです。華夏文明の発祥地は山西省南部ですし、長安(西安)も洛陽も黄土高原にあります。大同も4世紀末からほぼ一世紀、北魏の都でした。雲崗石窟、懸空寺などがその栄華を伝えています。
図-2 環境破壊と貧困の悪循環
応県木塔は高さ67m、世界最大級の木造建築で、1056年の創建です。斗栱(ときょう)、梁など木組みだけで建てられており、高度な技術がつかわれています。そのころは木造建築がたくさん存在し、その技術の粋を集めてこの塔が建てられたのでしょう。森林が存在したことの証です。
ところがその文明が地表をはぎ取るようにして、森林をなくしました。文明の前には森林があり、文明の後には砂漠が残る。大同もその典型です。
4.5800ha、1850万本を植える
私たちはこんなことをやってきました。水土流失を軽減するために、山や丘陵にグリーンベルトをつくります。植えるのは主に3種類のマツ(油松、樟子松、華北落葉松)で、グミ科やマメ科の灌木を混植しました。(写真-3)(写真-4)
2012年春までに、4738ha、1763万本を植えました。初期に植えたマツは7~8mに育っています。2000年ごろまでは1haあたり3300本が規格で、経費は2万円くらいでした。最近はノウサギ対策のために大苗を植えるようになり、人件費の高騰もあって、1haに1650本を植えて、22万円ほどになります。
写真-3 起工式。1本の木もなく、草もまばらな荒地。
この植林はもちろん風砂防止にも役立ちます。そして将来は用材林となることも期待されています。経済効果がまったくないとしたら、農民の意欲はでてきません。
写真-4 12年後、マツは4m近くまで育ってきた。
それから小学校付属果樹園をつくり、主にアンズを植えました。農村では2000年ごろまでは小学校にいけない子がいました。とくに女の子。農家の壁などに「文盲は娶(めと)るな!」といったスローガンがありましたが、それは女の子も教育を受けさせようという意味です。果樹を植えて、収入になるようになったら、その一部を学校に集め、就学保障をはじめ教育支援に生かそうと計画しました。
果樹は山にマツを植えるよりずっと難しく、6万本のアンズを全滅させたこともあります。でも、村の人や子供たちとの関係はずっと深まりました。農家にホームステイするようになったのも、そのおかげです。アンズを植えたことで、以前の雑穀にくらべ、収入が面積あたり5~10倍にもなり、毎年大学生を送り出せるようになった村もあります。
2012年春までに1074haに92万本を植えました。暖冬がつづき、アンズの開花時期が早まっていますが、開花後に寒波がくると、花や幼果が落ちてしまいます。出稼ぎがふえ、十分に管理ができないといった新しい問題もでてきております。
5.技術改善と人材の育成
最初は素人の集団でしたが、1994年から植物の専門家が加わりました。すごいんですよ。前代表の立花吉茂さんは、私が撮ったビデオをチラッとみて、「これでは枯れます。水不足ではなく、根が窒息するんです」と言われました。雨の少ないところですので、苗を植えて水をやったあと、蒸発を防ぐためだと考えて、足で踏み固めていたのです。踏まないで、むしろ砂利などを加えて、通気性を改善しないといけない、ということでした。ても、それだけの改善に何年もかかりました。彼らにもプライドがあり、議論ではだめで、実際の効果を比較してやっと納得してもらいました。
菌根菌を活用したマツの育苗も成功しました。菌根菌はキノコやカビのなかまで、苗に共生させるとその菌糸が根の延長として働き、水やミネラルの吸収を助けます。乾燥に強くなり、生育も向上します。小川眞顧問の指導で実現しました。
育苗や栽植技術の改善、人材育成などソフト面の協力に力をいれるようにしたのです。そのための拠点もいくつか建設しました。
おもしろいのは南天門自然植物園です。立花前代表の参加の条件は植物園を建設することでした。その候補地探しと植生の調査を頼んだら、現地のスタッフは山奥に自然林をみつけてきたのです。1998年夏のこと。悪戦苦闘の末にやっとたどり着いた自然林にはナラ、シナノキ、カバノキ、カエデなど落葉広葉樹が茂り、林床には落ち葉と腐葉土が積もっていました。
そこから遠くないところに86haの荒れ山を借りて、自然植物園と名づけ、柴刈りと放牧を徹底的に排除したのです。それがよかったんですね。あの自然林と同じように落葉広葉樹が茂ってきました。最大のものは樹高13m、胸高直径25cm以上に育っています。スタッフたちはかなり遠くまででかけて、種子を集めて苗に育て、植え広げています。(写真-5)(写真-6)
写真-5 この荒れ山に「植物園」と名付けた。結果は?
この3月末に中国林業科学院の陳幸良副院長、北京林業大学の2人の教授がここを視察しましたが、これほど植物種が多いのは中国北部では珍しいと驚いていました。今後の保護と発展に協力してもらおうと思っています。
写真-6 13年後。樹高13mを越えてナラなどが育った。
6.お互いに顔のみえる協力関係
現地を知らないことには、協力の気持ちはおきません。スタート時からボランティアツアーを派遣してきました。独自に派遣するのは春と夏、年に2回ですが、企業のCSR活動、労働組合のツアーも受け入れて、年に250人、延べ3500人を受け入れてきました。初期には風呂・シャワーはおろか、顔を洗う水にも困ったのに、それがよかったのでしょう。なかにはこの4月で19回のリピーターもいます。その人たちのおかげで継続できたのです。
内陸の地方都市・大同にも5年ほど前から変化の大波がやってきました。辣腕の市長がきたのが契機で、「この3年の変化はそれ以前の30年の変化より大きい」という声もきかれるほど。石炭頼みだった経済にもう1本の柱、観光産業を立て、さらに大工業団地を造成して企業誘致に乗りだしました。
私たちの拠点が生態公園と工業団地に収用されることになりました。市長がこれまでの成果を高く評価し、23haの土地を30年間無償で提供してくれましたので、2011年春から新拠点・緑の地球環境センターの建設に取り組んでいます。
2011年4月、大同を訪れたボランティアツアーに東日本大震災・大津波への義捐金が託されました。協力関係にある農村から集められたのです。小遣いを先生に託した子供のぶんもあって正確な数はわからないが、500人はくだらないといいます。
カウンターパートのなかにも、家族が戦争被害を受けた人がおり、この協力活動に参加するのに葛藤があったようです。でも、みんながんばってくれています。JICA中国事務所の人たちは「関係している中国側カウンターパートのなかで、大同がいちばんしっかりしている」と評価してくれます。私なんかがぼんやりしているから、カウンターパートがしっかりしてきたのでしょう。
7.継続できたのはまさに奇跡
尖閣諸島をめぐって、日中の対立が深まっています。そのさなかの2012年8月24日、大同の緑の地球環境センターで20周年記念イベントが盛大に開催されました。日本側参加者のなかには最初からウルウルになった人もいたのです。お互いにどんなにきらいでも、引っ越すことはできないのです。やっぱり上手につきあったほうがいいと思います。
中国の環境がこれ以上悪化すれば、日本もその影響を受けるでしょう。逆に改善されれば、日本にとっても利益になります。
去年の4月、中国の全国緑化委員会・国家林業局などの主催する「緑色中国年度焦点人物」コンテストに私がノミネートされ、インターネット上の投票で25.3万票をえて、唯一の外国人として国際貢献賞を受けました。授賞式で「木を植えて育てるのは困難なことで、20年継続できたのは奇跡のようなものです。途中で何度これでお終いだと思ったかしれませんが、そのたびに助けが現れました。いままた困難に直面しており、この受賞が新しい助けを呼ぶことを期待します」と挨拶しました。
昨年9月には日本の外務大臣表彰を受けました。