都市と自然誌抜粋(トピック)No_444_201303
「都市と自然」誌2013年3月号の内容を一部ご紹介します。
報告 「吹田くわい」ってどんな植物・食べ物?
文/高畠 耕一郎 (理事・吹田自然観察会)
「吹田くわい」の絵本「吹田くわいば~な~し」が刊行されました(写真-1)。 吹田くわい保存会監修で作・志村敏子 絵・大西美伸、大西祐作の両人です。このコンビは、なにわの伝統野菜の「天王寺かぶら」を出版発行されたメンバーで、この絵本は大変な反響を得て再版を繰り返しています。第二弾として絵本「吹田くわいば~な~し」が発刊されたのです。
「吹田市」の名前がついているなにわの伝統野菜「吹田くわい」をご存知ですか?現在、同じオモダカ科で一般に市販されているクワイは、中国原産で日本へは平安初期に中国から伝来したと言われています。しかし、「吹田くわい」は、牧野植物図鑑にも記載されている日本独自の植物です。牧野博士が吹田市にも逗留し、日記(昭和8年9月15日)にも詳しく記載しています。『吹田町の間西部の田間ニ之レオ採ル。一農夫案内シ呉ル 農夫曰ク方言コーグワイ、又マメグワ井、スイタグワイ、トモ云フ。稲田ニ野生シ稲ヲ刈リ后十二月下旬ニ掘ルニテ農夫堀ニ来ル。仲買人へ一升一円三十銭位ニ賣ル・・・』 吹田くわいは、普通のくわいより少し小さいですが身が詰まっていて柔らかく、その甘味と風味は独特のものがあります。葉っぱは矢尻型で三弁の白い花が夏に咲きます(写真-2)。吹田周辺では、昔から庶民の間で食され、特にお正月には立派な芽を持ったものを「め(芽)でたい」として、鴨形の藁包みに入れ、縁起物として贈り物にしていました。
吹田周辺で昔から販売はされていたようですが、文献によると1701年(元禄14年)の「摂陽郡談/名物土産の巻」に、「吹田くわい」のことを「島下郡吹田村の水田で作られ、市店に並ぶ、形は小さいが味はたいへん良く、知るひとのよく買い求めるところである」と記載されています。また、江戸時代の有名な狂歌師・蜀山人も「思いでる 鱧の骨切りすり流し すいたくわいに天王寺蕪」と歌に残しています。江戸時代(1683年)から明治時代まで、毎年京都の御所へ菊の御紋を付けた献上駕籠にのせて納めていたという歴史もあります。
植物学的には、吹田の湿田の周囲に「半栽培植物」としての位置づけもあります。「半栽培植物」とは、阪本寧男氏(元京大農学部教授)が、栽培されていたものではなく、田園周辺に自然に生えていたものを長い間採取したもので、栽培種でもなく野生種でもないものとして「半栽培植物」として位置づけられている植物でもあるのです。
戦後は、吹田市もニュータウン建設などの都市化が進み、田畑もほとんど見かけられない地域になりました。そのため「吹田くわい」も絶滅寸前でしたが、1985年に「吹田くわい保存会」が結成され、復活・保存活動がされています。余談ですが、吹田くわい保存会の現会長・北村英一氏(薬学博士)は、保全協会の初代会長であり、大阪自然史博物館の初代館長でもありました筒井嘉隆氏が叔父にあたります。北村氏にお話を聞いたところ、子供の頃、筒井嘉隆氏の自宅で保全協会の会合がよくあり、保全協会草創期のメンバーに可愛がられたと言っておられました。また、近鉄沿線の研究会に何度も参加して自然の大切さを身にしみて感じたと保全協会会報誌「都市と自然」394号(2009年1月号)に「初代会長筒井嘉隆叔父の思い出」を投稿されています。
近年では、植物としての学術的な研究や、料理の会や吹田くわいを使った和菓子・洋菓子やパン、お酒などの商品も開発されています。また、夏には白いきれいな花が長く咲くので庭に植えたり、鉢に入れて鑑賞用として室内に置いている方も増えています。吹田市のイメージキャラクター(すいたん)(写真-3)のモデルにもなっています。また、「吹田くわいネットワーク」なども結成され、多くの市民が「吹田くわい」の栽培支援、料理・観賞用などでの活用、また学術的な研究会や集会などを開催しています。しかし、吹田市内で本格的に栽培している農家は1軒だけの状態ですので、今後は栽培面積を増やすなどの対策が必要だと思われます。