都市と自然誌抜粋(トピック)No_439_201210


  「都市と自然」誌2012年10月号の内容を一部ご紹介します。

報告

   さとやまSTEP-UP研修
   里山はメシのタネ 都市があって里山はつくられた

                      文・写真:佐久間 大輔(大阪市立自然史博物館・学芸員)

 

 去る2010年の第10回生物多様性締約国会議で、日本政府は「里山イニシアチブ」を提唱しました。生物多様性は人間の触れない原生的自然だけにあるのではなく、人間の生活域の中でしか保全できないものもたくさんいます。だから生物多様性は人間から離れたところ「だけ」にあるのではなく、人間の生活から排除しないように守らなければいけないもの「も」多い。そうしたものを見直していこう、というのが里山イニシアチブの重要なポイントだと私は理解しています。
 詳しくは環境省のサイトを参照してください。
http://www.env.go.jp/nature/satoyama/initiative.html

 里山で生き残ってきた生物は小さな草花から猛禽類まで含め確かにたくさんの種類があります。薪を使わなくなった今日でも里山はこうした絶滅危惧種を含む多くの生物の住場所となる大事な環境であり、無用の二次林だからどんどん開発すればいいというものではありません。これは大切な観点ですし、保全協会の皆さんも多くの研究者もこの20年近く主張し続けてきたことです。しかし、そもそも里山はかつて生きものを育むための場所だったわけではありません。里山は村人が生計を得るための生産の場でした。村の人々がその領域の中に持っていた資源であり、その立地を活かした生産の場でした。自給自足ではなく、都市消費者に向けての流通商品の生産の場であったと私は考えています。

 しばしば里山は伝統的知恵で人が自然と共存してきた場、地域内で資源がめぐる自給自足の場として語られていますが、そこには伝統的知恵の過度の理想化(セルフ・オリエンタリズム)の危険があり、また里山をこれからどう管理するのかその視点を失うことにもつながるのではないか、と懸念しています。この小論では、かつて都市と里山がどのような関係にあったのかをもう一度見直し、幻影を廃して里山を見つめ直してみたいと思います。

里山は、都市という需要地を手にし 奈良に平城京という都市を建設し、さらに大仏殿などの巨大建築をつくるために、ヒノキやスギ、モミなどの巨木を使った結果、田上山(太神山)を始めとする近畿の山から巨木が枯渇した、というのは有名です。都市・社寺建設のため古墳時代から平安時代にかけて、朝廷はたくさんの山作所(木材調達のための拠点)を確保していますが、その中には大木が確保できなくなり、荘園へと転換されていく事例も見られます。大木を必要としたのは、この時代は板を作るために縦挽き鋸が導入されておらず、くさびで割って作っていたからです(このため、利用できる樹種は限られていました、図1)。この過程で巨木は近畿から枯渇し、結果としてより遠くから海や川をつたって運んでこざるを得なくなります。都市は資源を大量消費し、時には枯渇をもたらします。木材の枯渇はその後ますます深刻になりますが、そのことが技術革新を生んだとも言えます。室町期に中国から伝来した縦挽き鋸の導入により、ねじれのある広葉樹などの木材でも利用可能になります。針葉樹も効率的に利用できるようになりました。この辺りを詳しく知りたい方は神戸にある竹中大工道具博物館をぜひ見学することをおすすめします。

 さて本論に戻しますが、都市という消費地のために木材資源がかなり広い地域から供給されてきたことはご理解頂けると思います。時代が下って大阪の町が発展するとその都市建設を支えたのは四国の木材でした。大阪の木材市場は土佐商人が開いたといわれます。木材があり、都市へ運ぶ事ができればそれは収入にできたわけです。

 もちろん、地域内の流通もあります。通常村々の古民家などの木材は地域内流通であったようです。昭和に入ってからの古民家建築ですが、丹後半島の山中、宮津市上世屋の崩壊した古民家を解体して調べたことがありますが、屋根の△の部分は雑木林(からよい薪になるものを大方除いたもの)、屋根の下の□の部分は栗のまざったアカマツ林でほぼできているという状況でした。これらは全て、周辺の「里山」で確保できる資源です。この地域は木材資源を他所へ出している様子はありません(他に売り物はいろいろあったようです)。
 村々は木材を都市に販売でき、また自らのためにも確保できるという木材資源としては恵まれた状況にありました。

 もっと日常生活に必要な資源としては薪・炭などの燃料がありました。京田辺市の一休寺のある辺りに「薪」という地名があります。この地名はここが石清水八幡宮の荘園であり、薪を供給する場所であったことに由来するといわれ近隣との柴をめぐる争いの記録も残っています。中世の日本は薪や柴など豊かにいくらでもあった、とは少なくとも都市周辺を見る限りいかないようです。

 さて、京都に住む人々に必要な食料は年貢などの形で全国から集まります。実際のところ燃料はどこから供給されていたのか。もちろん東山を始めとする京都の三山もその供給源でしたが、もっと広域から供給されていました。例えば木津川水系は南山城地域一帯から川舟で大量の薪柴を供給してきましたし、桂川(保津川)もまた、古くから山国荘(京北町方面)などから木材とともに薪柴も供給してきた地域です。時代が下がるとも木材は出さずに薪専業となる集落も出てきています。大原方面からは人が背負って持ってきます。これらの地域は大都市京都のエネルギーを支える広大な里山ということもできます。

 逆に言えば、この広大な地域の里山は、都市という需要地を手にしたことで、村人の自給的資源から、お金になる存在、となったわけです。貨幣を基礎とした流通経済の発達は近畿地方においてはかなり早くから浸透しており、室町期以前からです。都市周辺の里山はこの流通にしっかり組み込まれ、村に富をもたらす資源であったわけです。

 大阪はどうだったでしょう。淀川上流部の資源は京都が飲み込んでいます。猪名川沿いもあとで述べるように重要な産地ですが、多くの資源は瀬戸内を越えてやってきました。初期には赤穂(兵庫)、淡路(兵庫)、讃岐(香川)、紀州(和歌山)など、江戸後期になると伊予(愛媛)、日向(宮崎)や薩摩(鹿児島)、土佐(高知)などが大量の薪・炭を大阪に送り込んできます(表1)。都市、大阪の存在が広く西日本の里山のあり方に影響していたといえるでしょう。この傾向は明治に入っても、さらに戦後まで基本的には変わりません。高知の山深い村で焼かれる炭の実に95%までもが大阪市場向けのものであったそうです。

競争が生む高品質化

 商品としての薪や炭はどんなものであったでしょうか。大阪商議所(現在の大阪商工会議所)の資料よると、薪として最も高値で取引され、流通量も多かったのはウバメガシだったといいます。ウバメガシというと備長炭(白炭)の原料というイメージが強いですが、薪としても大量に流通していました。第2位はクヌギです。クヌギは1束いくらで取引されたのに対し、しっかりとしまったウバメガシは重さで値段が決まったため、クヌギの薪を「束木」、ウバメガシの薪は「掛木」(目方をかけて買う)と呼ばれたりします。商品として取引される薪のほとんどはこの二種と、やや違う用途の松割木でした。ウバメガシは火もちがよく、またクヌギは火がはぜたりしない、ともに煙の少ない良質の薪でした。松は松明やより火力の必要とする窯業や鍛冶に使われました。これらは、コナラやサクラなどの雑木に比べ、確実によい値段で取引されます。松枯れなどの後に人が手をかけず成立した雑木林はコナラにアベマキなどが混ざったものが多いですが、アベマキは「下木」とされ薪としては売り物にならなかったようです。

 さらにいえば、池田炭に代表されるような高品質を売りにすることも大切でした。南河内にも天見炭や光滝炭、横川炭など飾り炭を含め様々なブランド商品が成立しています。大阪港へ各地から運ばれた炭の産地も現在でもよい炭を焼く産地として知られる地域です。品質競争も大事な要素だったのでしょう。薪であっても、京都の料理屋が乾燥具合がちょうどよくなるからと木津川で運ばれる精華の薪を指名買いする例があるなど産地や品質による選別は激しかったようです。

様々な里山の経営

 こうした値段の差から、特に積極的に薪を売っていた地域では積極的な植林が行われます。大阪でいえば北摂や南河内のクヌギ林は棚田の上の、果樹園や竹林に使われそうな場所をクヌギヤマにしています。京阪奈丘陵にもこうした場所に「割木山」と呼ばれるクヌギの純林がみられます。私たちにみられるクヌギの林のほとんどはこうして作られた「ハヤシ」なのです。瀬戸内の島々や南紀のウバメガシなども単に自然林と考えるのではなく、こうした人の手の影響を考慮する必要があるでしょう。もちろん、そこにウバメガシやクヌギがよく成長する状況が備わっていたことが基礎となるのですが、これらの林が選択され維持されてきたのはそれが収入につながるから、という事実は見逃せません。大阪のクヌギの薪炭林林業は八年に一度の伐採という、非常に短いサイクルで維持されていました。8ヶ所持っていれば毎年収入があるという非常に安定した収入源だったのです。

 クヌギだけではありません。アカマツを材や割り木で収入にする地域、農業資材として重要なマダケを売り物にする山もありました。農業用肥料や資料としてやはり需要の高かった草を供給するための山、市場が近く畑や果樹園の方がいい山もありました。土地の自然条件と都市との結びつきなど、様々な要素があって、それぞれの土地の里山経営があったわけです。図2には明治から戦後にかけての大阪各地の里山の経営のタイプを示してあります。

 昭和38年、大阪にプロパンガスが普及しはじめます。薪や柴の燃料需要の終焉です。売り物にならなくなったクヌギ林はタケ、杉・檜、あるいは果樹や茶といった他の商品に転換されます。中山間地の住人にとって、そこは遊ばせるのではなく、収入をあげてもらわなければならない場所なのです。廃棄物処理場にする、工業団地にする、等々の開発手法では土地の処分にはなりますが継続的に収入をあげて活かすことにはつながりません。

 里山をどうやってこの先メシのタネにできるのか、一時的な収入ではなく、安定した経営を実現できるのか。結局そこが要点です。過去1000年の近畿の里山をつくりあげてきた基礎は、里山をメシのタネにして生活する人々、村々の存在でした。村は里山により裕になり、里山で食えなくなった今、山間の村は消えつつあります。里山をメシのタネにすることは過去の話でしょうか。現代で里山を経営することは不可能でしょうか。簡単ではない、まだだれも答えを持っていない難題です。しかしそれに向き合うことを放棄すべきではありません。それが所有者や村の人々が里山を大切にし、安定的に里山とその生態系を維持する唯一の方法だからです。

 ここに書いた内容はより詳しく大住・湯本編『里と林の環境史 (シリーズ日本列島の三万五千年―人と自然の環境史)』(文一総合出版、2011年、4200円)に執筆しました、よろしければ参考にしてください。

   ※ 3 月6 日に行われた「さとやまstep-up研修」の講演をもとに書かれたものです ※

ネイチャーおおさか 公益社団法人 大阪自然環境保全協会

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