第6期・自然環境市民大学修了式/記念講演


水に生かされる作法

講師:宮本 博司氏

(前・淀川水系流域委員会委員長)

  (2009.3.12.:パル法円坂)


     皆さんおはようございます。宮本です。今日は20数名の方が1年間の講座を終えての修了式ということで、おめでとうございます。
     今、高田会長から社会学的な話であるとか、目から鱗であるとか紹介いただきましたけれど、そんなことはありません。気軽に聞いてほしいと思います。
     「水に生かされる作法」というテーマをつけたのですが、私が今から2年半ほど前に国交省(国土交通省)を辞めて、今どんなことをやっているかの話からしたいと思います。
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     京都の高瀬川という川は1600年代の初めに角倉了以とその息子の素庵が掘った運河で、木屋町の二条のところで鴨川から水を引いて南の方へ流れています。
  

     五条から南に行きますと、正面というところがあります。うちの家というのは、この正面橋から少し南に行ったところにありますが、明治の後期から大正の始めの高瀬川の写真を見ると、高瀬舟がいっぱい並んでいる様子が写っています。炭とか米とか味噌とかお酒とか、いろんなものを運んでいました。何百艘という高瀬舟が行き交っていて、京都の大動脈であったわけです。

     私の家の屋号は樽徳商店です。文字通り酒樽をずっと作っていました。ですが、今から40年位前、私が中学校の初め頃に、うちの親父がこういうドラム缶、ポリバケツ、土嚢、包装資材、こういったものの代理店に切り替えました。
     しかし、これ、実は全部石油の固まりです。こんな石油の固まりがこれから10年も20年も物流としてやっている世の中になるわけないと、私は思っています。
     それで、うちはもともと酒樽屋なので、もう一回自分で樽を作ろうと思いましたが、樽はちょっと大きいので桶を作ろうかなと思って、桶の職人さんの弟子にしてもらって、ポリバケツを売っている傍らで、これの製作をやっています。

     また、こういった石油の固まりを売ろうというやる気がなかったのですが、ちょっと考え直して、こういうものを作りました。
     「貴方のお店とか事業所でお使いの容器とか包装資材、環境破壊していませんか?容器・包装資材の減量、環境への負荷の軽減を提案します」。
     同じ売るなら出来るだけ減量化して環境への負荷を与えないような物を探し出してそれを提供しようかな、と切り替えたら、やろうかなという気になっています。
     商売の話はこれくらいで止めておきます。

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     去年、奈良の春日大社の春日奥山という裏山に、友人に誘われて森林の下草刈りにきました。植えて5年くらいのヒノキで高さ2m〜2.5mになっているところの下草刈りです。
     このヒノキは、奈良とか京都の神社仏閣を修復する時に使えるように、大きな年代もののヒノキに、400年育てる予定であると知り、大感激しました。私も、一緒に作業した人たちも死に、次の代、次の代と代々400年育てるために、皆で手入れして行こうというのはすごいなという気がしました。
     400年後がどういう社会になっているのか?私たちは後に見ることは出来ないけれど、このヒノキは見るのだなと思うと感動します。
     400年先っていうのは分かりませんけれど、400年前がどんなだったかは、いろいろな資料などで分かります。
     今ある大阪城は昭和30年代に出来たものですが、もともとは秀吉が今から約400年前に造りました。
     琵琶湖と今の大阪城の天守閣の高さが、ほぼ同じ高さです。琵琶湖の水面というのが、大阪城の天守閣の高さくらいで、あの高さくらいが淀川へ流れて来るという標高のイメージを持ってもらえるのではないかと思います。

     琵琶湖の話からしたいのですが、琵琶湖の西側、高島市のヨシがいっぱい生えている琵琶湖の水辺へ入ったことがあります。私がまだ役所にいて淀川の事務所長の時です。
     ヨシのところにフナやコイの卵がいっぱいついている。また、そのまわりの浅瀬にゲンゴロウブナの赤ちゃんが泳いでいる。
     私は河川管理者と言いながらも、こういうのを見るのは初めてでした。

     琵琶湖の水は神戸の西の端から和歌山と大阪の県境の岬町まで1,600万〜1,700万の人が飲んでいます。
     琵琶湖の水位の年間の変化を見ると、5月くらいから下がって行く。水かさが急激に下がると、ヨシに産みつけられたフナやコイの卵が何百万、何千万と干上がるわけです。浅瀬に泳いでいる稚魚が、浅瀬がなくなって死ぬ。
     我々大阪や京都の人が琵琶湖の水を飲んでいる。琵琶湖の水を飲んで、琵琶湖の水をじゃぶじゃぶ使って、使ったら使うほど琵琶湖の中では、何百万、何千万の卵が干涸びて、魚の赤ちゃんが死んで行っている。

     全然、その痛みを感じていなかった。私は。多分、多くの、1,700万の人は、自分たちが水を使ったら、こういうことが起きているという痛みをほとんど感じていないと思います。そういうことでありながら、環境や何やかやと言うのは、違うかなと思います。

     当時はまだ国交省にいたので、「人間のためだけの水ですか?」 というキャンペーンをやりました。
     我々が水を大切にしよう、あるいは節水を心がけようというのは、渇水の時に琵琶湖の水が少なくなると、我々が飲む水がなくなって困るからで、節水しようというのは、あくまでも我々人間のためです。だけど、必ずしも渇水でなくても、我々が下流でどんどん水を使っていたら、この琵琶湖の中の生き物にものすごい負担、ダメージを与えている。人間のためだけの水やないやないですか、この水は、ということです。
     そして、淀川流域委員会での河川整備計画の議論でも、こういうことを踏まえてこれかの水需要を考えて行こうということをやって来たつもりです。

     去年(2008年)の12月、滋賀県が持っている琵琶湖の湖底を探険するロボット、「淡探(たんたん)」と言いますが、これを見せてもらいに行きました。
     「淡探」がリアルタイムで映し出す琵琶湖の底の映像がブワーッと出て、死んだ魚がいるとカルシウムが出て白くなるらしい。琵琶湖の底も、実は酸素が薄くなって非常に悪い状況になっていることを教えてもらいました。
     我々がいろんなことで、目先の便利さとか快適さを求めて自然を痛めつけた結果こういうことになっている。だけど我々ふだんはそういうことに気付かない、痛みを感じないということがあるのかなと思っています。

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     私は毎朝京都の鴨川を歩いていますが、毎日歩いていると、本当に川というのは変化するということが良く分かります。川がどうして「川」って言うのかといえば、私は 「変わる」 から 「川」 だ と思います。
     ところが、私が何年もずっと仕事でやって来たダムというのは、上から変動する流れが来ると、それを出来るだけ溜めて、そして下流には一定の水を、最低限の水を流す。そうすると、変化がないということになるから、川が川でなくなる。
     確かにダムというのは水を溜めて、水道の水を溜められるから、そういうところでの意味はあるのですが、一方では、人間で言うたら血管を止めるようなもので、それだけの影響があるのは間違いないということです。
     これまでの、水の需要があったらダムを造って水供給を優先的にしようということの結果、琵琶湖にしても、淀川にしても病んでしまっている。川が川でなくなっている。あるいは生き物たちが、ほんとにダメージを受けている。
     流域委員会では、これからは出来るだけ水需要を抑制して、今までの水利権の使い方を考えて、水需要の管理の方向ということをしなければならないと考えています。水が必要だからダムを造ったらいいという時代では、もうなくなっていると思うのです。方向転換しなければならない。

     そのことの良いケースがあります。三重県で造る川上ダムです。

     この川上ダムで、上野市が毎秒0.3トンの水を確保したいと考えています。
     ところが横に青蓮寺ダムというのが既にあって、ここに大阪市が水利権を持っていますが、使っていないので余っています。この青蓮寺ダムから大阪市が持っている水利権分を流して、途中の池を経由する方法で流したら、上野市で必要な分が確保できるので、上野市は非常に安いお金で水が確保できる。
     大阪市は使っていない水利権でもそのダムに対して維持費が何千万円もかかっているので、その分安く出来る。大阪市にとっても上野市にとっても良いことだという議論が流域委員会で出て、両市に話をしに行きました。

     上野市はどこからの水でもかまわないということでOKだった。

     大阪市に行ったら、平松市長は煮え切らない。「よう分からん、就任したばかりなので」 ということです。すると、横の水道局長が絶対にダメだという。0コンマ何トンであってもだめだと。0コンマ1トンでも、びた一文も渡しません、ということです。

     ところが、大阪市は大阪万博の頃最もたくさんの水を使っていて、そこからずっと使う量が減って来て、今、毎秒10トンの水が余っている。
     毎秒10トンというのはどのくらいの量かというと、毎秒1トンで20万人の町の水が供給できるので、200万人分が使わずに余っている。10トンの水が余っているのに0コンマ3トンの水を渡しませんという。これはおかしな話です。

     水が余っていたらそこから新たに必要な所に融通したらいい、それで新たなダムを造らなくて良いという話に反しています。本来なら国土交通省が出来るだけダムを造らないようにしようと考えて、彼等が調整したら出来ることです。
     ところが、今の彼等は計画したダムは絶対に造りたいから、その調整をあえてしようとはしないのが、非常に情けないと感じています。

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     また、400年前に戻ります。京都の伏見城の話です。
     伏見城は今から400年ほど前に造られましたこの城が出来た当時の京都の南側というのは、桂川、宇治川、木津川、合流して淀川があって、巨椋池(おぐらいけ)という大きな池がありました。
     伏見城を造るにあたって、もともと本流が巨椋池に入っていた宇治川を、外堀と伏見港を造るために堤防を造って山手の方へぐーっと曲げた。結果、今現在の地形はこのように変わってしまっています。
     横断図を書いてみると、もともと巨椋池の方に宇治川が流れていたのを、堤防を造って曲げたので、高い所を流れるようになってしまった。水というのは高い所から低い所に流れるので、こんな高い所に土の堤防を造って川の水を押さえ込むというのは、ものすごく危険です。堤防が壊れたら、水はこちらの低い方、巨椋池のあった方へ行くわけですから。
     だからこの堤防は何度も切れています。一番最近この堤防が切れたのが、昭和28年。ここで切れて水は巨椋池のあったところへ流れて、周辺は水浸しになりました。

 

(拡大)

     今から4年くらい前、アメリカのニューオリンズにハリケーンカトリーナがやって来て、堤防が壊れて一瞬のうちに1,200名ほどの人が亡くなったということ記憶にあると思います。
     淀川と大和川と大阪の街の横断図を書いてみると、淀川の堤防のてっぺんから10m下に、大和川の堤防から18m下に大阪の街がある。ニューオリンズはミシシッピ川とポンチャートレイン湖の堤防より7〜8m下です。大阪は10〜20m下です。この堤防が壊れたらどうなるかと言えば、ニューオリンズよりももっと大きな災害になります。もし、JRの京都線が淀川を渡る鉄橋の所で、淀川の左岸の堤防が切れたら、天六の地下鉄の入り口から水が入り、7〜8時間で大阪の地下鉄、地下街は全部水没します。
     秀吉が造った文六堤と呼ばれる堤防は高さ2mです。2mくらいの堤防だったら、よく水が溢れます。溢れるけれど、もともと湿地帯なので、そんなにたいした被害はなかったわけです。
     ところが、溢れると困るということで、だんだんと堤防を高くして来て、溢れにくくする。今、10mの堤防になっていて、なかなか溢れたり壊れたりしなくなっている。けれど、絶対ということはあり得ません。
     もし、この堤防が壊れたら、ここには日本一過密な街があり、そしてその下には地下鉄が走り、地下街がある。とんでもないことになると私は思っています。

     かつて洪水対策の基本は、洪水のエネルギーを分散させることだったのが、明治以来方向が変わって、降った雨を出来るだけ早く川に集めて、出来るだけ下流に流す、洪水エネルギーの集中というふうになってしまっています。

     去年の夏、神戸の都賀川で子どもさんが流されるという事故がありました。事故の後、いろいろな人が、危ないから警報装置を付けたり、入ったら危ないことを知らせる看板を立てるとか言っていましたが、全くナンセンスです。六甲に降った雨を出来るだけ早く集めて、出来るだけ早く海に流そうということでコンクリートの排水路として造ったのが都賀川です。コンクリートの排水路の中に親水公園を造ること自体がおかしい。そのことを言わずに警報装置をつけようなんて言うのはとんちんかんです。もっと根本的な所を考えなければと思っています。

     高い堤防の中に洪水のエネルギーを集めるだけ集めて、堤防の際(きわ)まで家が建っているというのが現状です。高さ10mの堤防の際まで家が建っている。
     この堤防は外から見れば、草が生えていて山のように頑丈そうに見えますが、草をめくったら中は土です。これを知らない住民が多い。
     堤防は山のようで強いと思っておられるけれど、山は岩があるので強いのです。堤防には岩はありません。土を盛っているだけです。
     先程話した、昭和28年に切れた宇治川の横断図を近鉄奈良線が渡っている所で書くと、宇治川、木津川、と巨椋池がこのような高さになります。巨椋池に身長170cmの私が立っているとすると、このような位置関係になります(右図拡大)

     この堤防の中は砂です。木津川が流れて来る山は花崗岩で、川には砂がたくさん流れて来ていて、木津川の底は全部砂です。その川底の砂を盛り上げて堤防を造っている。砂山です。堤防の中身は土まんじゅうであり、砂山です。
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     私、国交省の仕事を28年間やりました。堤防の中が土まんじゅうであり砂山であることは、始めから分かっていましたが、20年間はそのことの恐ろしさが見えなかった、というか、おそらく見ないようにして来たと思っています。
     淀川の事務所に来た時に、頭の中をまっさらにして堤防を歩き、堤防の中を見た時に、よくこれまでこのような堤防を放置してきたという気持ちになって、ゾッとしました。

     この7〜8年間こういう話をするようになって来ました。治水のいろいろな問題にはややこしいところがありますが、これだけの事実、この砂堤防がそのままにしてあるのを見たら、それだけで、国交省が河川管理者として治水事業をやって来ましたと言う筋合いではないと思っています。

     堤防の中に洪水を押し込めて海に流すというのが、明治以来からの考え方です。確かに堤防の中に洪水を押し込めることが出来るのであれば、それはいいと思いますが、しかし、もし押し込めることが出来ない時には、大変な破壊的な被害が起こる。それまでの低い堤防で溢れていた時の被害よりももっと大きな被害が起こるということになります。

     今の話に絡むのですが、昔の人はどう考えていたのかを知る良い例があります。
     京都の桂川のほとりに桂離宮があります。これも今から400年ほど前に出来ました。周囲は、今でこそ家が建っていますが、低湿地帯です。

     桂川は何度も氾濫しています。桂川のすぐ横の桂離宮が400年間どうやって伝えられて来たか。
     桂離宮は非常に繊細な庭、中の書院や茶室も非常に華奢な構造です。それが、まさに日本の庭園美だと言われているものです。それが氾濫を繰り返している所にどうやって生き延びて来たのか。

     一つは、中の書院が高床式です。桂川の洪水が溢れて入って来て庭は浸かってしまっても、座敷には上げない。
     もう一つは、笹垣と呼ばれている 「桂垣」 という生け垣があります。笹が編んであって氾濫、洪水の時に一番困る砂とゴミが入るのを防いでいる。桂川の氾濫は避けられないものとして受け入れるけれど、出来るだけきれいな水に浸かって、水が引いてくれるように、砂とゴミをここでフィルターをかける、そういう工夫がされている。

     桂離宮は、洪水を防ぎきろうと思っていたら400年間伝わっていなかった。多分何年か後の洪水でふっとんでしまったと思います。洪水が入ってくるのは確かに仕方ない、受け入れざるを得ない。だけど、どれだけダメージを少なくするかという工夫がされている。
     まさに洪水と対立するのではなく、ある意味、洪水と共生しようという発想で来たから、桂離宮は400年間もったわけです。
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     今まで、「防災」 と言われてきました。防災なんて出来っこないわけです。地震にしろ、洪水にしろ、いろんなものがやって来ます。我々の想定外のことが。その中でいかに凌ぐかということです。「減災」、いかに災害を少なくするかという方向でやるべきだと思います。

     今の状況は、この土まんじゅうと砂山の高い堤防の中に洪水のエネルギーをどんどん集めようとしている。この堤防が一気に壊れる例が最悪のことです。ニューオリンズどころじゃありません。
     昔はこういう堤防の低い所とか、あるいは、霞堤と言ってわざと堤防がつながっていない所があって、ここにじわーっと水を溢れさせて洪水のエネルギーを分散させていた。これがまさに洪水対策は分散が基本だということです。
     九州の城原川の堤防は、急に低くなっているところがあります。これより水かさが上がったら、ここからじわーっと田んぼに分散させる。これを「野越し」と言います。

     このようにじわーっと洪水を分散させることは必要ですが、こういうことをすれば、水がよく溢れて来る所の土地利用は他の土地とは変えなければならない。例えば、農業だけにしようとか、公園でいいのではとか、あるいは家を建てるなら、桂離宮のように高床にしようとか、そういう工夫が出て来る。なおかつ、この土地の固定資産税については安くしようとか・・・・・。

     こういう土地利用、街づくり、家の建て方、税制、全て含めて、川の中だけで洪水に対応するのではなく、流域全体で洪水を受け止めようではないかということです。

     このことは、流域委員会で今までずっと言ってきましたし、滋賀県の嘉田知事なども言っている 「流域治水」 というのはこの発想です。
     ダムで溜めて、川の中にだけ洪水を全部押し込めることには限界があるし、かえって危険が大きくなる。地域全体で、しかも、いろんな施策を取り混ぜてやって行こうというのが 「流域治水」 で、これを目指しています。

     目先の安全性、利便性、快適性で洪水を川に押し込めて、そして川を変えるということをやって来ましたが、その結果危険で脆い地域になっています。腕力で洪水を押し込むのではなく、私たちの住み方や地域の姿の方を変えようではないか。この方がより安心出来る対策だと思っています。
     秀吉は腕力で宇治川を押しまげて、そして押し込める。結果的に非常に不自然で脆くなった。桂離宮のように、柳に風、受け入れられものは受け入れよう、その方が自然であり、かえってしたたかになった。

     その発想の違いをもう一度、明治以前と以後で変わったものを、再度変えなければと思っています。
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     洪水を押し込めようとした結果、川が排水路になっています。洪水を出来るだけ早く流そうとするから、まさに排水路の川にしてしまった。

     その結果、本来の自然な川にある、水が流れるところがあって、河原があって、溜まりがあって、水たまりがあるというのが、排水路になってしまうと、横の河川敷はゴルフ場とかグランドになる。川でなくなって、排水路とゴルフ場なり公園というものになる。
     昔のようなだらだらとした河原であれば、水かさがあがったら水が浸かるし、水かさが減ったら河原になる。これがまさに 「変わる」 から 「川」 です。
     今は水かさが上がろうと下がろうと、ほとんどこの中のことです。この高水敷には10年、20年に一度も水があがらないという状況になっています。

     河原がなくなって来ているので、カワラサイコ、カワラナデシコという文字通り河原に生息する植物がなくなっている。
     イタセンパラも浅瀬があって生きている。ところが、浅瀬がなくなって来ている。城北のワンドで調査してもこの3年間稚魚がゼロになってしまっている。淀川では絶滅したのではと言われている。川が川でなくなったからです。
     アユモドキも昔淀川にいましたが、今は亀岡にいるくらいで、これも絶滅危惧種。我々が川を川でなくした結果、こういう生き物がどんどん、どんどんいなくなっている。

     私たちが川に洪水を押し込めようとして来たことが非常に不自然で、その結果、我々の命も危ないと同時に、川に生きる生き物たちの環境も壊して来たということです。

     よく、「人の命か魚の命かどっちが大事か」という議論があります。反対運動があったりしたら、「おまえら、魚の命、鳥の命、と言うが、人の命とどっちが大事なんや」 と言われる。
     そう言われると何も言えなくなるということがありますが、嘘です。
     川と地域を分けて、洪水を押し込めようとする洪水対策のやり方と河川の環境は対立します。この場合は「人の命か、魚の命か」になる。
     本当の治水対策、長年ずっとやっていた治水対策、いかに洪水を地域全体で受け止めるかという治水対策をやれば、河川の環境、河川の生態系は対立しません。だから、こういうふうに方向転換すれば、人の命も大切だし、魚や鳥の命も大切だということになる。

     この方向転換をやらなければならないと思っています。
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     最後にダムの話を少ししたいと思います。去年(2008年)の11月11日に大阪の橋下さんと京都の山田さんと滋賀の嘉田さんが大戸川ダム反対だ、中止だということをおっしゃった。
     大戸川ダムが必要という説明では、まず、戦後最大洪水を安全に流すことが目標にあげられます。そのためには桂川の下流部の流れにくい所の川底を掘削する。そうすると、大雨が降って多くの水が流れると淀川の水位が上がって計画高水位(HWL:ハイウォーターレベル)を超えて危なくなるのでダムが必要だ、というのが私なりに非常に単純、簡単にしたダムの説明です。

     桂川が流れにくい所は確かにあり、川底が高いので、戦後最大洪水を流すために掘削しましょうというわけです。流れにくい所を広げたら大きな洪水が来た時に、よりたくさん流れるようになる。これは当然です。
     それで、淀川の河口から上流に向かっての堤防の高さと、計画高水位の線 (架空の線ですが) の図がありますが、この高水位の線 (洪水対策計画を作る時の前提) を1cmでも水位が超えたら危険。もし200年に1度の大雨が降ったら、もしも桂川の川底を掘削したら、水かさが危険ラインを超えるところがある。ほんの少し、17cm高くなる所がある。
     大戸川ダムがないと、HWLを3時間ほど17cm越えて、淀川の堤防が切れて、浸水面積約10,100ha、浸水家屋約32万戸、約19兆4800億円の被害が出てしまいますが、大戸川ダムがあったら、この線を超えることはないので、全く安心できます、ということです。
     これが国交省が我々流域委員会や知事さんたちに説明した大戸川ダムが必要な理由です。

     私は、これは違うだろうと思います。私は国交省河川課の仕事でダムの仕事をずっとやって来ました。本省でもいろんなダムの審査をしていました。今、私が本省にいて、このダムの計画を近畿地整から出されても、そりゃあまりに無理だろうと言います。それを今、押し通そうとしているわけです。
     なおかつ、おまけがありまして、計画高水位というのは1cmでも超えたら危険だということがダム必要論の根拠だったわけですが、(私には分かっていたことですが、)毎日新聞が淀川の所長に、この危険ラインには科学的根拠はないということを言わせて、それが記事になった。ほんとに情けない話です。

     基本的に、いろんなことに結論を出す時には、「あぁ、これやからこれやな、こっちから見てもこれやな」 という並列の論理展開をすれば、なるほどどこから見てもそうだ、となる。
     しかし、今のダムが必要だという説明は、「これやからこれ、これやからこれ、これやからこれ、だからこれ」 という風につながり、どこか一つでもおかしかったら絶対に成立しない。そして、こうやって論理が長くなればなるほど、非常に疑わしくなる。
     これは私がまだ国交省にいた時にある有名なダム反対論者の人が言ったことですが、「国交省の説明の長さとうさんくささは比例する」と言われた。全く同感です。

     また、いろんな批判があるような場合に、役所ではよく説明の最後にこう言います。「理解が得られない」、「一般の方やマスコミの方の理解が得られない」と。
     この言葉ほど傲慢な言葉はない。自分たちに間違いがないということが前提になっているからです。自分たちは間違っていない、しかし、学者、住民、自治体は分からない。それは自分たちの説明がまずくて、まだまだ理解が得られない、ということです。決して自分たちがまちがっているとは言わない。
     こういうことをやっているものだから、今、国交省近畿地整(近畿地方整備局)の言っていること、やっていることが不信感をあおっている。とうとう3知事も、国には頼らない、我々だけで責任を持ってやります。言うたら国から独立するよというくらいのことを言ったわけです。

     今、いろんな問題がありますが、全部地域のことです。全部地域の問題なのに、地域から最も離れていて、地域の痛みが分からない霞ヶ関が日本のいろんなことを決めるシステム、これが根本的に間違っていると思う。これを変えないことには駄目だと思っています。
     我々は、明治からずっとやって来た結果の脆い地域・悪化する河川・行政不信、これを変えようとして、したたかな地域河川環境を修復しよう、信頼回復しようということでやろうとして来たのですが、ここでまた、もう一回揺り戻しが来て、今、我々は分岐点にいます。
     次世代にいったいどういう琵琶湖、淀川を引き継ぐのか、どういう地域、国の姿を引き継ぐのかという大事な、大事な分岐点に、我々はいると思います。
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     昭和30年代の初めの木津川の下流部の写真を見ると、岩清水八幡宮があって、男山で、水泳場がありました。私はまだ幼稚園にも行っていない頃、親父に連れられて行ったことがあります。木津川は砂河川ですから、潜ると白い砂がさーっと流れるわけです。ものすごくきれいだったことを今でもおぼえています。

     だけど、この木津川、私が感動したことを、もう私の子どもは体験出来ませんでした。私の孫、3人いますけど、彼ら、彼女らも体験出来ない。
     今日来ておられる方の中、若い人もおられるけれど、たいていが私とほぼ同じかちょっと上の方が多い。私も含めて、皆さん小さい時に川で遊んで、きれいだったな、感動したなということあったじゃないですか。それを私たちの子どもや孫にはもう体験させられない。

     誰のせいやと言うたら、私たちの世代のせいですよ。私たちは小さい時は感動して、その後物質的、経済的に豊かになって来て、そして最後はもう知らんわということで死んで行きますか?私たちの世代が自然を破壊してこういう社会を作って来たのだから、もう一回ここで振り返って、とどまって、方向転換しようじゃないか、ということを言って次に引き継がなければならないのではないか。方向転換して、再生まではいかないけれど、少なくても方向転換しようじゃないかということを、我々の世代の責任としてやらなければならないと私は思っています。
     私は川の仕事をずっとやって来たのですが、良く考えてみたら、やっぱり命ということをものすごくないがしろにして来たな、それが我々の流れだったなということを感じます。口では命が大事と言っていても、本当の意味では大事にして来なかったのではないかなという気がしています。

     食料自給率もおかしい、年間3万人もの自殺者がいる、地球温暖化、川の水も危険、食の安全、生態系破壊、先程の治水の話。
     何かおかしいのではないか、もう一回、命大事やという運動をやらないかという仲間が出来ました。その集会を今度やろうと思ってチラシを持って来ています。「面白そうだからやろうかな」という人がありましたら、お持ち帰りください(拡大)

     以上で終わります。どうもありがとうございました。

    以 上
    ◆この講演記録は、(社)大阪自然環境保全協会主催 「第6期・自然環境市民大学」の修了式に際し開催した公開記念講演会における宮本博司氏のお話の一部を、当日投影されたスライド画像(一部)とともに、HPの形として取りまとめたものです。HP公開に際し宮本氏のお許しとご校閲を得ていますが、スペース等の関係上、講演の全容を必ずしも再現できているわけではなく、その点、ご理解とご寛容をお願いいたします。
     最後になりますが、修了式当日貴重なお話を頂き、また、HPへの掲載、画像の提供を快くお許し頂いた宮本博司氏に心からお礼を申し上げます。
    自然環境市民大学担当理事 佐藤治雄(2009.8.28.)


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